院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ

   

いちゃりばちょーでー

 

いちゃりばちょーでー ぬーぬ ふぃだてぃが あが ひとたび出会えば皆兄弟。何の分け隔てがあるだろうか。古来から語り継がれる沖縄の金言(くがにくとぅば)である。三山統一に至る内戦を経て、沖縄は平和な島になった。人口20万人にも満たない小さな王国は、しかし、明、清の海禁、日本の鎖国という歴史的、地理的狭間を縫ってその交易範囲を東南アジアまで広げ、大交易時代という黄金期を迎えた。いちゃりばちょーでーの精神は商業主義・営利主義に陥りやすい中継貿易を実りあるものへと変えたのである。その後、琉球侵攻、琉球処分、苦しい時代の波に翻弄されながらも、沖縄は独自の文化を築き、伝承し、発展させてきた。いちゃりばちょーでー、そしてその兄弟が互いに助け合える、ゆいまーるの精神がそれを支えたのである。

その貧しくも心豊かな島に、鉄の嵐が吹き荒れた。住民を戦争に巻き込んだ沖縄戦。20万人の命が失われ、島全体が焦土と化した。父や母、兄弟あるいは祖母を亡くした幼き子供たちは、米軍統治下の琉球政府、政治・経済の難しいかじ取りの中で逞しく成長し、多くの若者が失われた命を偲び、貴い命を救うべく医の道をめざした。もとより沖縄には医学部がなく、異国である日本へパスポート持って渡航。本土との格差、時として受ける偏見や同情に悩みながらも本懐成就し医者となり、沖縄に戻ってきた。当時は、アメリカ式の医療を導入し実践する県立中部病院が、外傷・救急医療で沖縄の医療を牽引していたものの、他の分野での立ち遅れは否めなかった。昭和49年、大学中心の医療体制に新風を吹き込む日本臨床整形外科医会(JCOA)が発足すると、昭和51年沖縄臨床整形外科医会(OCOA)が設立された。会員も少なく活動も限定的であったOCOAは昭和56年の琉球大学医学部の発足により飛躍的に発展し、地域医療を担う一翼となる。会員も第二世代に移行しようとする現在、物質的なゆとりと引き換えに、直面せざるをえない医療・福祉における軋轢や矛盾、多様化する価値観、激動する国際情勢。その中で、我々は今一度厳しい目で自らを省みる必要があるのではないだろうか? 思い出してみよう。二十歳そこそこの若者が、解剖学の実習で、御献体に初めてメスを入れた時、天啓のごとく舞い降り、雷のごとく全身を貫いた医師になることへの意志。国境を越え、宗教やイデオロギーを超え、不幸な歴史を乗り越えて、真に守るべきものは、地位や名声、ましてや財産などではなく、人の命・健康な身体そのものであると。そしてそれが紡ぎだす大切な家族の絆であると。難しいことなどひとつもない。そこには単純で明快な答えがある。いちゃりばちょーでー。ぬーぬ ふぃだてぃが あが。私たちOCOA会員は沖縄で生まれ、あるいは沖縄で暮らし、医療に携わることができる幸せと誇り、それを全国に発信する万国津梁の気概を、今宵胸に刻む。

 

この文章は、日本臨床整形外科医会の全国大会が沖縄で開かれた際、オープニングメッセージとして会場で流したビデオのナレーション文です。

 



目次へ戻る / 前のエッセイ / 次のエッセイ